[連載]ギャングスタのスターたち

セルアウト型の音楽を足がかりに、“ビジネスマン”として成功したショーン・コムズ

2013/06/08 17:00

 人気ボーイズグループ「Jodeci」にヒットを出させ、メアリー・J・ブライジを売り出すなど会社に貢献し、瞬く間に副社長まで上り詰めたショーンだったが、93年突然クビになってしまう。「当時はただただ情熱的で、会社のしきたりとか序列とか理解していなかった。1つの城に2人の王様はいらないのに、裸の王様になっちまったんだ」と振り返る彼は、「クビになった直後は、赤ん坊が生まれたばかりなのにと絶望し、大泣きしたね」と告白している。

 だが、実績のあるショーンのもとには、すぐにソニーなどの大企業から手を組みたいとオファーが入るように。ショーンは、自分の可能性を信じてくれた、クライブ・デイヴィス率いるアリスタレコードと契約を結び、自分のレーベル「バッドボーイ・レコード」を設立した。設立当時は、友人のクレイグ・マックとノトーリアス・B.I.G.しかいなかったレーベルだったが、94年にリリースしたB.I.G.のファーストアルバム『レディ・トゥ・ダイ』が売り上げ200万枚を超える爆発的なヒットになり、アーティストを増やした。ショーンは、所属アーティストだけでなく、アッシャー、マライア・キャリー、TLCなどの大物アーティストのアルバムも手がけるようになり、そのすべてがヒット。ショーンがプロデュースした、TLCの『クレイジーセクシークール』は90年代に最も売れたR&Bアルバムとして語り継がれている。

[バッシング・評価]

 ギャングとは違い、スタイリッシュなイメージを売りにしていたショーンは、B.I.G.やマライア・キャリーのMVに登場してライムをしていたため、ラッパーだと思われることも多かった。しかし、あくまで立場は音楽プロデューサーであり、96年に米国作曲家作詞家出版者協会のソングライター・オブ・ザ・イヤーを獲得。業界からも認められた、HIPHOP・R&Bプロデューサーとして絶大な人気を集めるようになった。が、この少し前から、西海岸を拠点とするライバルの「デス・ロウ・レコード」との対立が表面化するようになる。

 西海岸VS東海岸のHIPHOPの抗争をメディアは大々的に取り上げ、世間は面白がり、アルバムの売り上げはアップした。しかし争いは、「死ね」「殺す」といった言葉が飛び交うなど収拾がつかないほどヒートアップし、96年にデス・ロウの看板ラッパーだった2パックが何者かに射殺され、翌年バッドボーイの看板ラッパーで、ショーンの大親友であるB.I.G.が何者かに射殺されるという最悪の結果で幕を閉じた。

 B.I.G.は、大ヒットしたセカンドアルバムがリリースされる直前に殺されたのだが、そのアルバムのタイトルが『ライフ・アフター・デス』であったこと、ファーストアルバムも死に関連するタイトルだったことから、ショーンは「オレがつけたタイトルのせいで、B.I.G.は死んだのかもしれない」と自分を責めた。鬱になり、自殺するのではないかと周囲が心配するほどだったという。

 失意のどん底に落ちたショーンだったが、この悲劇からポジティブなことを生み出したいと、B.I.G.に捧げるアルバム制作に着手。自らMCを務め、パフ・ダディ&ザ・ファミリーの名で、デビューアルバムとなる『ノー・ウェイ・アウト』(97)をリリースした。この作品に収められた、イギリスの人気バンド「ポリス」の名曲「Every Bearth You Take」の楽曲を使いショーンがMCした「I’ll Be Missing You」は、ビルボードで連続6週第1位を獲得するという爆発的なヒットとなり、アルバムはプラチナムとなった。

 2年後にはセカンドアルバム『フォーエヴァー』をリリース。ビルボードチャートの上位に食い込んだものの、HIPHOPファンは「有名な楽曲ばかり使う二番煎じ」「オリジナルの曲が少なすぎる」「アーティストをフィーチャリングさせすぎる」と評価せず、「彼はアルバムを売るためならなんだってする、まさにセルアウト(商業的な成果を追求すること)する男、企画屋だ。MCなんかじゃない」と批難した。しかし、ショーンの勢いは止まることなく、同年、スタイリッシュなクロージングライン「Sean John」を設立。ニューヨーク・ファッション・ウィークの常連デザイナーとなり、ランウェイで発表する新作には自ら針を通すほどのこだわりと情熱で、「Sean John」を一大ブランドへと成長させた。

 この少し前から、歌手で女優のジェニファー・ロペスとの交際をスタート。彼女のアルバムも手がけ、「バタ臭いラテン歌手」だった彼女をセックスシンボルへと見事にイメチェンさせた。ショーン自身もひょろひょろした体形から筋肉をつけて肉体改造し、2人は最強のラティーノ×ブラック・カップルとして、タブロイドに追い掛け回されるように。リッチでセレブな2人のロマンスに、全米が注目した。だが99年の年末、ショーンにとって最大のピンチが訪れることになる。

[成功への道]

 ショーン最大のピンチ、それは負傷者3名を出した銃撃事件の加害者として逮捕され、裁判にかけられたこと。99年12月27日、ジェニファーや取り巻きと訪れた、タイムズスクエアのナイトクラブで発砲事件が発生。ショーンは銃刀法違反で逮捕、起訴されてしまったのだ。「ショーンがディスられたことに腹を立てた」「札束を投げつけられたショーンが激怒した」などの目撃証言があり、現場から信号無視して逃走したショーンの車の中から銃が発見されるなど、限りなくクロと言われたが、ショーンは「自分はピストルを持たない。自分のではない。自分は撃っていない」と主張。

 裁判は長期化し、ジェニファーは彼から離れ、ショーンは大きくイメージダウンした。01年3月、ショーンは無罪を勝ち取ったが、ショーンの友人で所属ラッパーだったシャインは有罪となり禁錮10年の判決を受けた。「大勢の黒人が冤罪をくらっている。自分もそうなるのかと怖かった。やりたいことがたくさんあるのに、15年間も刑務所になんか入ってられないと思った」とショーンは裁判を回想している。

『bmr レガシー:スーパープロデューサーズ』
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