[連載]ギャングスタのスターたち

2パック、エミネムをプロデュースした「世界で最も高収入のミュージシャン」ドクター・ドレー

2013/04/13 19:00
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超金かかってなさそうなファッション

――アメリカにおけるHIPHOP、特にギャングスタ・ラップは音楽という表現行為だけではなく、出自や格差を乗り越え成功を手に入れるための“ツール”という側面もある。彼らは何と闘い、何を手に入れたのか。闘いの歴史を振り返る!

【今回のレジェンド】
プロデュース能力だけでギャングスタラップの頂点に立った
ドクター・ドレー

[生い立ち]

 ドクター・ドレーは、1965年2月18日、本名アンドレ・ロメル・ヤングとして、カリフォルニア州コンプトンに生まれ育った。父親はアマチュアで活動するミュージシャン、母親は彼を出産する直前までグループに所属していた歌手。70年代のファンクミュージックに強い刺激を受けながら成長した彼は、ジョージ・クリントンを崇拝するような子どもだったという。ドレーは、わずか4歳の頃から母に頼まれハウスパーティーでDJをするように。「レコードを何枚もダメにされたわ」と、母親は笑いながら振り返っている。

 15歳のクリスマスの日、母親からDJミキサーをプレゼントしてもらったドレーは、その魅力に夢中に。「部屋から出てこなくなったの。『ご飯よ』って言っても、『腹減ってないし』って。夜更けにそっと部屋に入ったら、大音量の音楽が流れるヘッドフォンをしながら爆睡してたわ」と母親は回想。部屋をスタジオに改造したドレーは「バイクが欲しいっていうのと一緒だよ。オレの場合、ミキサーだったんだ」と説明している。

 コンプトン地区は黒人低所得階層が多く住み、薬物売買と暴力がはびこる治安の悪い街として恐れられているが、ミキサーのおかげで彼は大きな犯罪に手を染めることなく少年期を過ごせたのだった。

[キャリア初期]

 ドレーのキャリアがスタートしたのは17歳の時。地元のクラブでDJのバイトを始め、この頃から“ドクター・ドレー”と名乗るように。「ドクター」はバスケットボールの神様と呼ばれたジュリアス・アービングの愛称“ドクター・J”から、「ドレー」はアンドレの愛称から取った。「オレが選んでかけた曲に、みんなが歓声をあげて踊るんだぜ。すげぇハイになったな」と彼は懐かしそうに語っている。

 彼の実力は口コミで広まり、地元DJグループが「メンバーにならないか」とオファーする。ドレーは喜んで仲間に入りステージに立つようになったのだが、次第に方向性のズレを感じて、若くしてレコード・レーベルを持つ知り合いのイージーEに話を持ちかけた。イージーは麻薬売買で得た大金を元にレーベルを設立したが、なかなかヒットを出せず、才能あるアーティストとの出会いを求めていた。ドレーの才能とイージーの資金、彼らのコネで集めた個性的な天性のアーティストたちである、アイス・キューブ、DJイエラ、MCレンらで結成したグループ「N.W.A.」は、「肝の据わった態度のニガー(Niggas With Attitude)」というグループ名の通り、ハードコアなコンプトンのストリート・ライフ、権力者への怒りと反発をラップにし、世間に殴り込みをかけた。

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