慶應義塾大学・ヒサヨ先生の「あの頃の少女たちへ」第5回

『星の瞳のシルエット』の進まない内輪恋愛劇から得た、「じれったさ」への耐性

2013/02/23 19:00
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『星の瞳のシルエット(1)』/集英社

とおーいとおーい昔に、大好きだった少女マンガのことを覚えていますか。知らず知らずのうちに、あの頃の少女マンガが、大人になった私たちの価値観や行動に、影響を与えていることもあるのです。あの頃の少女たちと今の私たちはどうつながっているのか? 少女マンガを研究する慶應義塾大学の大串尚代先生と読み解いてみましょう!

<今回取り上げる作品>
柊あおい『星の瞳のシルエット』/「りぼん」(集英社)掲載、1985~89年
柊あおい『耳をすませば』/「りぼん」掲載、1989年

 柊あおいを知ったのは、「りぼん」(集英社)本誌に連載されていた『星の瞳のシルエット』が初めてでした。「200万乙女のバイブル」というキャッチフレーズがつけられ、長期連載となった人気作品なので、私と同じような人も多いのではないでしょうか。しかし、この頃すでに高校生だった私は、妹が毎月買ってくる「りぼん」を読みながら、こう思っていました。じ……じれったいわ……!!

 『星の瞳』の主人公・沢渡香澄は、小さい頃にすすき野原で出会った、名も知らぬ少年から「星のかけら」といわれる石をもらい、それ以来ずっとその石を宝物にしています。その後少年と会うこともなく中学2年生になった香澄は、親友の真理子が片思いをしている少年・久住智史に惹かれ始めます。しかも久住も、香澄を気にしている様子。しかし香澄は、真理子に気づかって久住への思いを止めようとします。香澄と真理子のどちらの気持ちも察してしまい、どうにも動けない友人・沙樹。そんな香澄のいじらしさを目の当たりにして、香澄に惹かれるのが、久住の友人であり、沙樹の幼なじみである司。その司を密かに想っているのが沙樹(言葉にするとややこしいが、結局は内輪で恋愛……まあ中学生なんてそんなもんだ)。

 読者は、みんな香澄と久住が両思いなのはわかっているのです。とっくに。けれども物語の2人がなかなか自分の想いを伝えないまま早幾年……。結局高校2年生になって、やっと2人の想いは通じ合うのでした。もっと早くき・づ・け・よ!! と文句をたらたら言いながらも、結局気になって最終回まで読んでいた私は、結局この『星の瞳』マジックにかかってしまって、うっかり「200万乙女」の一員となっていたのでした。

 『星の瞳』は、学園恋愛ものの王道だと思うのですけれども、私がとても印象に残っているのは、香澄と久住のオクテぶりだけではなく、登場人物の人柄が透けて見えるような、細かい描写でした。そう、例えば、登場人物の私服姿のそこはかとないダサさであるとか(笑)。

 特に印象的だったのは、高校生になった真理子に、押し切られる形でつきあい始めた久住が、やはり香澄への想いを断ち切れずに、喫茶店で別れ話を切り出す場面です。久住に振られた真理子が先に席を立つのですが、その時さりげなく、真理子がコーヒー代として小銭を置いていくシーンがあるのです。チャリ……という音とともに。

 この連載をリアルタイムで読んでいた時(もう20年以上前になりますが)、なぜだかこの場面がとても心に響きました。この度20年ぶりに『星の瞳』を読み返してみても、やっぱりこのシーンが目に留まったのです。

 高校生の恋愛で、まだ喫茶店(いまだとカフェ?)でお茶を飲んだりするくらいが精いっぱいのお付き合いでも、「ちゃんと自分の分は払います」みたいな女の子。正直なところ、登場人物としての真理子はあんまり好きではありませんでしたが、この小銭を置いていくシーンは、なんとなく真理子という女の子のひととなりが、端正に描かれているように思ったのです。ちょっと強引かも知れませんが、例えばこうした描写の細かさが、もしかしたら冒頭に述べた「じ……じれったい……」という感想へとつながったのかもしれません。

 こうして丁寧に描き出された香澄や真理子をはじめとする登場人物は、女の子にとっての人間関係の距離の取り方とか、奥ゆかしい恋愛とか、友情関係などのあり方の1つを示しているようでした。先に真理子に久住への想いを打ち明けられてしまった香澄は、「抜け駆けはできない」という状況下でどうするのか。香澄の気持ちに気づいている沙樹はどう立ち回るのか。主人公である香澄に味方する読者にしてみれば、沙樹がもっと香澄のためになんとかできないかとも思うのですが、やっぱり「女3人」というバランスを崩せないという沙樹の苦しい胸のうちも、理解せざるを得ない。

 「自分だったらどうする? どう動く? 誰の気持ちを優先する?」スパっと出せない答えは、登場人物たちに対する「じれったさ」から、自分への「じれったさ」へと変わっていきました。だからこそ『星の瞳』には基本的に“悪役”がいなくても成立すると思うのです。そして最後にはみんな理解し合って、それぞれがパートナーを獲得するという大団円へとつながるのです。

 『星の瞳』終了後の『耳をすませば』(同)も、やはり、登場人物を緻密に描き、女の子のあり方を示している作品です。スタジオジブリでアニメ映画化もされたこの作品ですが、はっきり言ってしまうと、とても地味なマンガだと思います。「200万乙女のバイブル」と言われた『星の瞳』の次の連載作品でありながら、登場人物が不思議なほど可愛くないというのも、その一因かもしれません。

 本が好き、ファンタジーが好き、自分も物語を書いてみたい、という非常にまっとうな文学少女である月島雫は、自分の興味以外のことにはまったく疎いために、親友の原田夕子の悩みに気づかなかったり、夕子が好きな人・杉村が自分を好きであることに気づかなかったりするのです。「文学少女」のお手本のような鈍感さとでもいうのでしょうか。その昔、毎週土曜日に地元の図書館に通っていた地味な女子中学生だった私は、身につまされるような思いになるのですが、もちろん本を介しての出会いは皆無でした……本を介さない出会いも皆無でしたが。

 そんな鈍感少女の雫だけれども、人が気づかないようなもの、見過ごしてしまうものへの感受性を持っています。雫のその感性は、謎の黒猫を追ううちに見つけた骨董屋「地球屋」の奥に、ひっそりと佇む猫の置物へと彼女を導きます。それが、雫の世界が広がっていくきっかけを与えるのですが、そんなゆっくり進んでいく時間が、柊あおいの作品には似合っていると思います。

 『星の瞳』の香澄と『耳をすませば』の雫は、自分ではひたむきさ以外の取り柄はないと思っているけれど、勉強ができたりちょっとした文才があったりするヒロイン。そして、どちらの作品でも、ヒロインにはなれない女の子の立ち位置というのも、同じくらい重要に描かれています。そのおかげで、『星の瞳』の真理子と沙樹、『耳をすませば』の夕子に、親近感を持つ読者もいたと思います(私は自分自身がメガネッ子で意地っ張りだったという点で、沙樹に自己投影をしていました)。柊あおい作品の女の子たちを通して、読者は自分自身を見ることができていたのではないでしょうか。

 今にしてみると、少女たちは、少女マンガを読みながら、自己反省をしたり自己肯定をしたりして、少しずつ自分との付き合い方を学んでいったのではないかとも思います。もっとも、その付き合い方というのは、「少女マンガ」でしか通用しない方法だったのかもしれません。けれども、はっきりとした答えがすぐには見つからない「じれったさ」に対する耐性が身についたかな……と思うのです。そして、『星の瞳』や『耳をすませば』の世界に浸りながらも、どこかでそんな「じれったい」自分を客観的に見ていたことは、大人になった今、物事を見る時のスタンスに、どこかでつながっているような気がしています。

大串尚代(おおぐし・ひさよ)
1971年生まれ。慶應義塾大学文学部准教授。専門はアメリカ文学。ポール・ボウルズ、リディア・マリア・チャイルドらを中心に、ジェンダーやセクシュアリティの問題に取り組む。現在は、19世紀アメリカ女性作家の宗教的な思想系譜を研究中。また、「永遠性」「関係性」をキーワードに、70年代以降の日本の少女マンガ研究も行う。

最終更新:2014/04/01 11:20
『星の瞳のシルエット (1)』
「200万乙女のバイブル」ってなんて名コピー!!
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