別れの言葉にこそ愛が詰まってる

笑いと涙に溢れる、告別式でのセレブの名スピーチ

2012/11/01 21:00
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ホイットニーの死は衝撃でした

 今年は、実に多くのハリウッドスターたちがこの世を去っている。衝撃的な死を迎えたスター、闘病の末亡くなったスター、天寿を全うしたスター。死というのはどんな形であっても、つらく、悲しいものである。

 味のある名優として多くのファンを持つマイケル・クラーク・ダンカンも、今年亡くなったスターの1人だ。彼は7月に心臓発作を起こして意識不明となり、9月3日に他界。業界人たちからも愛された彼の死に、ハリウッドは悲しみに包まれた。そんな悲しみを癒やしてくれたのが、告別式で弔辞を述べたトム・ハンクスだった。『グリーンマイル』(1999)でマイケルと共演して以来、仲の良い友人だったトム。告別式ではマイケルが若かりし頃、憧れのギャングに入ったものの、小柄な母親からフライパンで殴られ、1日で足を洗ったという話をマイケルの物まねをしながら面白おかしく披露。最後、大笑いしながら両手で涙を拭くトムの姿に、多くの人が彼らの友情の深さを感じ取り心打たれたのだった。

 今回は、トムのようにハリウッドスターの葬儀・告別式で印象に残る素晴らしい弔辞を行ったセレブたちの「告別式での名スピーチ」を、ご紹介する。

■リー・ストラスバーグ→マリリン・モンロー

 メソッド演技法を確立し、マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェーン・フォンダ、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロ、ジャック・ニコルソンら数多くの名優を育てたカリスマ演技指導者のリー・ストラスバーグ。20世紀を代表するセックスシンボルで、コミカルな演技に定評があったマリリン・モンローも、彼の指導により大成長を遂げた女優であった。そんな彼女の突然の死に嘆き悲しんだリーは、葬儀・告別式に駆けつけた。

 「彼女は自分の人生をもって、恵まれない貧しい少女が、いかに大きなことを成し遂げられるのかという神話を作り上げた」という言葉で弔辞を始めたリー。「しかし私には彼女の神話や伝説を語ることはできない。なぜなら、そういうマリリン・モンローを知らないからだ。今日、ここに集まっている人たちは私を含め、皆、温かく、シャイで、繊細で、拒否されることを怖がり、でも人生には貪欲で達成に向かって突き進むマリリンしか知らないだろう」と参列者の涙を誘った。

 続けて、「彼女の女優になるという夢想は子どもの頃から育まれたものであり、決して、はかない夢物語ではなかった」と述べ、幼少時代に彼女が孤児院や養子として育てられ、悲しく寂しい思いをしてきたことについて触れた。そして、モデルになったことで銀幕の世界に足を踏み入れるチャンスを手にし、スターダムを駆け上ったものの、「皮肉にもハリウッドスターになったことが、彼女の命を縮めることになってしまった」と悲しそうに語った。

 最後にリーは、「さよならは言えない。マリリンは、さよならが大嫌いだったからだ」「だから私は、オ・ルヴォワール(再会)と言う。彼女が行ってしまった世界に、いつか私たちも行く、その世界に向かって」と見事にまとめた。

■シェール→元夫ソニー・ボノ

 エンターテインメント界において、常に時代の最先端を行くパイオニア的な女性として知られたシェール。アカデミー賞とグラミー賞の両方を獲得し頂点に立った彼女を発掘したのは、ソニー・ボノだった。2人は1964年に結婚し、“ソニー&シェール”として一世を風靡。79年に離婚し、シェールはハリウッドの頂点を極め、ソニーはレストラン経営者を経て政治家に転向。パームスプリングス市長、アメリカ上院議員に当選し、著作権に関する法案を成立させようと熱心に活動した。しかし、政治家として脂が乗ってきた98年1月5日、ソニーは不慮のスキー事故で亡くなってしまった。

 外見の美に執念のようなこだわりを持ち、整形を繰り返しているシェールだが、ソニーの葬儀・告別式には泣き腫らしたすっぴんに近い顔で出席。別れて20年近くなる彼へ、愛あふれる弔辞を述べた。

 「この紙を見ながらスピーチすることをお許しください。この48時間、私はずっとこのバカバカしい弔辞を書き続けてきました。頭を抱えている私を見て、もちろん、ソニーは大喜びしているでしょうね。そう、彼は最後に笑う男なのよ」と最初に述べ、張り詰めた空気を緩ませたシェール。続けて、「きっとこの弔辞は私の人生の中で行う最も重要なことなのだと認識しています」と言い涙を流し声を震わせたが、「あぁ、気にしないでください。弔辞を終えるまでに、何回かこんなふうになるので。ソニーは、さぞかし大喜びしているに違いないわ」とユーモアを入れ、再び空気を和らげた。

「多くの人がソニーは背の低い(169cm)男だと誤解しているけれど、彼は誰よりも高い人だった。誰よりも遠くを見ることができた。将来のビジョンもあり、それに向かって突き進んでいた。彼の熱意は周りの人たちを巻き込むくらいすごいものだった。彼がどこへ行くのか誰も知らなかったけど……みんな、彼と一緒に行きたがった」
「彼に最初に会ったのは16歳の時。変な髪形をしていて、“オレはナポレオンの子孫なんだぜ”って言ったの。(4人の大統領の彫像が彫られている)ラシュモア山は素晴らしい自然現象なんだって信じてる16の娘にそんなことを言うのよ。まったく、私たちの結婚は運命だったのね」

 そして、彼と結婚するまでのこと、交際初期の話、素晴らしい思い出にあふれた日々の話を参列者に伝えた。

 その後、ソニーが再婚した妻、彼女との子どもたちについて、素晴らしく愛にあふれた家庭だったとたたえ、「昔、“これまで出会った中で最も忘れることのできない人物”という雑誌特集記事を読んだことがあります。私にとって、それは、ソニー・ボノ。あとどれぐらい私が生きるのか、どれくらい多くの人たちと出会うのかわからないけれど、“これまで出会った中で最も忘れることのできない人物”がソニーであることは、生涯変わることがないでしょう」と泣きじゃくりながら、弔辞を締めくくった。

■オプラ・ウィンフリー→ローザ・パークス

 アメリカ人なら誰もが知っている名司会者で、アメリカで最も影響力のある女性とされるオプラ・ウィンフリー。2004年まで黒人唯一の億万長者だったこともあり、アフリカ系アメリカ人の誇りとも呼ばれている。多忙を極める彼女だが、05年に行われたローザ・パークスの告別式には駆けつけ、弔辞も述べている。

 その昔、アメリカのバスは白人席と黒人席に分かれており、中間部分には白人がいない時のみ黒人が座れる席があった。ローザは42歳だった55年、仕事帰りにこの中間席に座り、白人が乗ってきても譲らなかったため運転手に通報され、“人種分離法違反”の罪で逮捕された。このことが公民権運動の導火線となったため、彼女は公民権運動の母と呼ばれている。

 「彼女に最後のさよならを伝えるため、ここに来られたことを、とても光栄に思っています」「南部で育った私にとって、シスター・ローザはヒーローでした。父から有色人種の女性が白人に席を譲ることを拒否したんだよと教わったとき、子ども心に“彼女はきっと大きな女性なんだわ。背が高くて、とっても強くって。白人に立ち向かえるほどの強い女性なんですもの”と思ったのを覚えています」と話すと、教会はドッと笑いに包まれた。笑いを交えたトークを出だしにもってくることで、オプラは参列者の心を見事につかんだ。

 「大人になり、彼女に会うという素晴らしい機会に恵まれた私は、彼女を目の前にしてとても驚きました。子どもの頃に思い描いた女性とは正反対の、小柄で繊細なレディーで、思いやりと優しさのかたまりみたいな人だったからです」「私は彼女に“ありがとう”と伝えました。彼女が現れるまでヒーローを持たなかったすべての有色人少女、有色人少年を代表して」そう述べ、参列者から拍手喝采を浴びた。

 「シスター・ローザ。あの日、あなたが席に座り続けることを選択したのは、大勢の人々の人生を変えました。もし、あなたが席に座るという選択をしなかったら、今の私はいませんでした。私は今日のような生活を送ることもできなかったのです」「あなたはあの日、1人の白人男性や運転手、法律だけでなく、歴史に立ち向かったのです。400年もの間、軽んじ続けられてきたという歴史に立ち向かったのです」
「シスター・ローザ。私は、あなたに大きな借りがあると感じています。成功しなければならないという借りが」

 黒人が味わってきた苦い歴史をなぞるような内容のスピーチに、惜しみない拍手が送られた。

■ブルック・シールズ→マイケル・ジャクソン

 子役から女優へと見事にキャリアを積み、ハリウッドには欠かせない存在となったブルック・シールズ。彼女は10代前半、マイケル・ジャクソンと仲が良く、大親友としてデートを楽しんでいた時期があった。プロポーズされたことも告白しているブルックは、マイケルの告別式に招かれ、弔辞で2人だけの甘い思い出を語った。

 壇上に立ったブルックは涙ぐみ、声を詰まらせながら「マイケルは唯一の人だったわ」とスピーチをスタート。「私たちは若かった頃、一緒にいるとよく写真を撮られた。そして、異色カップル、妙なカップルと書き立てられた」「13歳で彼と出会ってから、お互い最高の理解者として、時にはデートの相手として、共に成長していった」「同じ環境で育ったから、ここまで理解し合えたのだと思う。“私は11カ月で仕事を始めたのよ。あなたは5歳だっけ? ずいぶん怠け者なのね”って笑いネタにもできた」「私たちは小さい頃から大人のように振る舞うように求められ、そう従ってきた」「でも、私たち2人きりの時は……子どもになれたの! 無邪気な子どもに」泣きだしそうになりながらブルックはそう述べた。

 「からかわれるのが大好きだった」「彼はキングと呼ばれているけれど、私が知っているマイケルはリトル・プリンス、星の王子さまのような人だったわ」と述べ、『星の王子さま』の文章を引用。最後に、「マイケルが一番好きだった曲は、チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』の『Smile』だった。“心が痛んでも、笑顔でいよう”という曲。だから、私たちは心が痛むけれど、空の三日月に座っているマイケルを見上げて笑いましょう」と震える声で言い、スピーチを終えた。

■タイラー・ペリー→ホイットニー・ヒューストン

 俳優だけでなく映画プロデューサーとして成功を収めているタイラー・ペリー。ホイットニー・ヒューストンのよき友人だった彼は、自分のプライベートジェットで彼女の遺体を西海岸のロサンゼルスから故郷の東海岸ニュージャージー州に移送しただけでなく、葬儀にも参列。「ニューホープ・パブティスト教会」で営まれた告別式で弔辞を述べた。

 「ホイットニーと最初に出会った時のこと。(ホイットニーの義妹でマネジャーの)パットからの紹介で、アトランタのレンストランで、彼女と2人きりで食事をした」「彼女は、それまでの悲しかったこと、大変だったこと、つらかったことを話してくれた。自分はこういう話を聞かされると励まさずにはいられなくなるんだが、その前にホイットニーはこう言ったんだ。“だけど、神さまがお助けくださった”って」。ここで、教会からは「イエイ!」「ウォ~」という歓喜の声が上がり、拍手が巻き起こった。

 「神の恩寵により、彼女はシシー・ヒューストンを通して天国から送られてきた。神の恩寵により、彼女は歌を通して育った。幼少時代の不幸な出来事により、彼女は歌うどころか生涯話せないのではないかと言われていたのに、神の恩寵により、彼女は乗り越えてきた。神の恩寵により彼女は音楽チャートのトップに上り詰めた。そして、その同じ神の恩寵が彼女を天国に戻るよう導いたのだ」
「ホイットニーを想うたび、聖書の使徒パウロ(「ローマ人への手紙」)の一説が私の胸で燃え盛る。“神の愛から、私たちを引き離すことはできない”という言葉だ」

 タイラーが聖書の言葉を引用したことによりオルガンの音が入り、参列者は次々と立ち上がり拍手が巻き起こる。「ホイットニーは神を愛していた。何があっても、権力で抑え込まれても、彼女と神は引き裂かれることはなかった」と声を詰まらせながら興奮気味に語るタイラーに参列者も興奮し、教会は1つになった。

 「最後に、もう一度、使徒パウロの一節を言わせてほしい。“神が私たちについていてくださるならば、だれが私たちに逆らうことができますか”」。ここで敬虔な信者たちが次々と立ち上がり、天を見上げながらその言葉に身をゆだねる。タイラーは「神は彼女と共にいて、彼女は今、安らかに天使と歌を歌っている」と言いスピリチュアルなスピーチを締めくくった。

 ほかに、クロコダイル・ハンターことスティーブ・アーウィンの葬儀で、当時8歳だった娘ビンディが「父はヒーローでした」「父の遺志を継ぎ、絶滅の危機に面した動物たちを助けたい」と、けなげにスピーチ。マイケル・ジャクソンの娘パリスがメモリアルのステージで「誰が何と言おうと、父は世界一の父親でした」と飛び入りスピーチしたのも、とても印象的だった。

最終更新:2012/11/01 21:00
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