『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』刊行記念 特別対談【前編】

美と男、自己実現に表現欲求……もがく女たちの現代の肖像

2011/07/17 11:45
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『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク
編』(河出書房新社)

 パティ・スミス、ランナウェイズからマドンナ、そして戸川純から中島みゆき、安室奈美恵までをも引き合いに、女性アーティストから女と社会の関わりあいを読み解いた『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』(河出書房新社)。彼女らの表現が生まれた背景、提示してきた女性像とは? そしてその表現への男性社会の評価とは? 女性アーティストが音楽の世界で開拓してきた道は、そのまま女性の意識変革の道であったことが見えてくる一冊だ。本書の中で、それぞれの見解を示したライター・水越真紀氏と文筆家・五所純子氏に、ロールモデル不在と言われる現代で求められる女性像について語ってもらった。

■勝間的自己実現はウーマンリブ以降の到達点

――現代女性に支持されているロールモデルは勝間和代やYOU、安室奈美恵など数パターンありますが、彼女らに女性が投影させているもの、受け取っているものとは何でしょう?

水越 いま挙げられたのは、努力したり、楽しそうだったりそれぞれですが、いずれも経済的に自立するパターンですね。一方で、男女に関わらず、昨今の不況は若い人たちを保守的にもしている。就きたい職業が公務員とか「正社員」とか専業主婦とかね。
  80年代は「女の時代」なんていわれてたけど、男にも社会にも余裕があったから、女はそのおこぼれを貰えてただけだった。正義や理念によってフェミニズムが注目されたり、雇用機会均等法が成立したわけじゃなかった。『ゼロ年代の音楽 ビッチフォー ク編』で、湯山玲子さんも「日本の女を自由にしたのは消費資本主義だ」ということを言ってるけど、私もそう思う。

五所 その分のボロが今、出てますよね。企業は女性を総合職として雇わなくなっているって聞きます。高学歴の女性が学歴を低く詐称して就職試験を受けている、なんて話もあるくらい。明らかに退化でしょう。せつないですよ。そんななかで、専業主婦っていう「安定志向」に傾いてるんだろうけど、それは本当に安定なのか。専業主婦って、夫を雇用主とする労働なわけでしょう。でも、誰からも賃金は支払われないし、社会的な保障も切り詰められてる。いわば精神的な契約でしか成り立ってない、めちゃくちゃ不安定な立場ですよね。

水越 そういうのに対して勝間和代みたいなメッセージ、例えば「仕事で600万稼ぐことが私を自由にするんだ!」っていうのもあるけど、年に600 万円で買える、あるいは600万円なければ買えない自由を追うことで、600万円の檻に閉じ込められそう。

五所 資本主義が取り憑かれてるものと同じですよね。

水越 (笑)勝間は70年代のウーマンリブ以降に目指された一つの生き方の成功例だね。男と同じように働いて、同じようにお金を稼いで、そこに自己実現がある。

五所 勝間和代にはそのピークと限界が同時に見える気がする。

水越 つらいなと思うのは、昔は中~高学歴の女性たちは自分から「働きたい」って言ってたわけじゃん。今はその人たちが真っ先に専業主婦という「特権」に 乗っかろうとしてるように見える。近代の教育では、自由になる手段として労働=自己実現だって言ってきたわけでしょ? それが、今は働いたら仕事に追われて自己実現できないっていう構造になってる。

――たとえば、中年の女性像としてのロールモデルには、YOUや小泉今日子らが挙げられます。

五所 私は憧れないですよ。YOUとか小泉今日子、永作博美のゆとり感ってどうしても虚飾だと思うんです。実際は皆もっともがいてるんじゃないかな。中年になっても女性には、やっぱり美醜の問いがつきまとってると思うし、若い男との浮き名が彼女たちの自由度を上げてるように見える。美と男。実際にはこれが等身大のプレッシャー なんじゃないかな。

水越 「もがいてる」女の子たちの映画は近年すごく多いね。例えばこないだ『もう頬杖はつかない』(1979年)を32年ぶりに見たんだけど、若い女が一人で歩き出すにあ たって男の存在がものすごく大きくて驚いた。最近はああいう若い女の主人公は見たことない。ものすごくアナクロに見えたよ。

■女性の表現欲求と与えられる評価軸

五所 最近気になった映画の主人公っています?

水越  『川の底からこんにちは』(2010年)とか『サイタマノラッパー2』(2010年)とかかな。すごく閉じ込められててどうにもならないんだけど、『もう頬杖はつかない』の主人 公とはまったく違うものが踏み台になってる。90年代のガーリー・ブームは、経済力を持った大人の女たちのためのムーブメントとは違って、主流社会では未来が見えない、というか主流社会そのものの未来自体が見えない中で、若くて何も持たない女の子たちが何かを作ったり表現しようとした密やかなムーブメントだったと思う。そういう表現欲求自体にもがいてる女の系譜にある作品ではないかな。

五所 自己実現的な表現欲求よりも、どん詰まりの状況を突破したいっていう力のほうが先行してる感じでしょうか? それが破滅的な表現欲求としてあらわれていたのが、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007年)だった気がします。近親相姦の要素もあったけど、むしろ、都会で挫折する姉と田舎に閉じ込められた妹の、それぞれのもがきと復讐の対比だった。

水越 ああ、そうかな。自己実現志向というのは現在の自分や状況への不満がなくても持ちうるものかもしれないけど、表現欲求はそうではないかもしれない。孤独でも閉塞感でも自己嫌悪でも逃避したいような環境でも、なにかしら「どん詰まり」を抜け出したい、あるいは逃避したいというネガティブな動機があるんじゃない? 90年代以降は、日本社会ごと内省的な部分が増えたことと、なんだかんだ言っても80年代フェミニズムが女性の表現者の存在をよく見えるようにしていたという環境もあったと思う。

五所 女性の表現者が見えるようになった功績は、本当に大きい。歴史の教科書って、登場人物が圧倒的に男性ですよね。私、覚えてる女性って、卑弥呼と北条政子と与謝野晶子だけ。存在が見えるようになるってことは、生き方や表現を考える上でのレファレンスが増えるということでもあるから。
  一方で、いまだに「女流」作家とか「女性」アーティストとか言われますよね。医者や社長や政治家と違って、決して女性が少なくない、およそ半々の業界でも、です。それから、女性の表現に対して言及するときに、「女性性」とか「女性的」なんてものが持ち出される。その言葉を使った瞬間から思考停止しているということでしょ。分からないものに対して 「女性性」「女性的」と判を押してごまかしてるにすぎない。

水越 そうそう。しかも「分からない」のは単純には「男」なんだろうけど、「女性性」とか「女性的」というのは女も平気で使う。それはマスメディアや学問なんかに流通している正統な言葉というのが、やっぱりまだ「男」の言葉だからなんじゃないかな。

五所 そう、男性中心主義を男性も女性も内面化しきってますよね。だから単に、男/女という構造ではなく、女ひとりのなかで、女として生きなければならない自分と、女でありながら女を下位に置いてしまう自分、その間で引き裂かれて苦しむ。

(後編につづく)

『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』

女性アーティストから女と社会の意識変革を読み解く新アプローチの一冊。著書は磯部涼、野田努、二木信、水越真紀、五所純子、三田格、RUMI、湯山玲子ら。

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最終更新:2011/07/19 17:28
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